日本を捨てて、日本を知った / 林 秀彦

日本人について

日本人は自分たちが日本国籍を有するという天恵に深く思いをひたすことがない。
他民族のように市民権や独立のため、長い世代にわたり血の代償を支払った経験がないためである。
日本国籍は世界でも獲得しにくい国籍の1つである。

愛国心とは自己愛の変形である。自己愛は他社との比較において生まれる。
他社を知らなければ自己を知ることもできない。自己を愛せない人間の行き先は、自虐と自滅である。

完全に成熟したすばらしい言語の日本語も、世界文明的感覚での言語価値と、
その言語が包括する人間性概念から見れば、未熟児同然である。

少なくともあと100年は、我々日本人は感覚的なギャップに苦労し、諸外国から翻弄され、
国内的には試行錯誤を続け、国際舞台の上では相当に悲劇的なナキを見続ける。

中国人=麻雀 イギリス人=ブリッジ アメリカ人=ポーカー 日本人=丁半賭博

世界はアメリカ人のポーカー精神によって制覇されている。ポーカーは個人の合理に徹した才能にかかわる。
セコサの極限が要求される。悪知恵の限りを尽くさねば勝てない。
二重人格、時には三重四重の人格も要求される。

丁半賭博にはセコサなど関係ない。運を天に任せる子供のような潔さ、ナイーヴさしかない。
ジュパーダイスの認識がひとかけらもない。そんな民俗がポーカーに勝てるわけもなく、
世界戦略としての外交的剽桿と狡猾に勝てるわけもない。畢竟、経済にも勝てない。

日本の対応の基本は「村八分」である。
出産、成人、結婚、葬式、法事、火事、水害、旅立ち、普請の十である。
二つの例外が認められている。葬式と火事である。

比較愛国論

日本人の認識する価値は全て直感によって生まれる。
比較なしのこの決定的な違いが日本を永久に世界の孤児にする。

西洋の学問はまず、比較することから出発する。地球上で最も比較することの下手な民俗が日本民族である。
1万年以上の長い間、日本人はこの世界から隔離されたような小さな島国でヌクヌクと暮らしてきたために、
比較する対象が極めて少なく、侵略者としての「他者」がほとんどいなかったために、自他を含め、
なにかとなにかを比較するという能力がまったく育たなかった。
そんなことをする必要がなかったのである。

比較識別が綿密になるほど、憎悪と嫉妬は強力になった。だから日本人の愛憎反応は希薄だった。
悪質な抗生物質=翻訳造語された言葉群(実感のないまま使っている)

日本人は世界一、頑固な民族である。
歴史的に純粋培養されたあまり、その脳みそが容易に応用しきれなくなっているからである。

日本人の持つ価値観が、いかに世界には通用しにくい特殊なものであるか・・・

世界と日本を実感で比較し、その上で世界を洞察しリードする新しい価値観、すなわち、新しい文明を
確立するための勉強が必要。

日本以外で生まれた価値観を根本からしっかり認識しなければならない。

いかなる民族でも、愛国心の遺伝子は、革命などの血塗られた悲惨な戦争からしか生まれない。

日本人だけがもつ超能力

日本人がもっとも感動する台詞は、すべて「なにげない」ものである。
一を聞いて十を知る民族
日本人は会話に99%の勘と1%の言葉を使う。

「ビコーズ」・・話し手は、常に聞き手に対して理論武装を固めている。
自国語を失うという事は、人間として一人前でなくなることである。

軽い時代の軽い言葉がつくる軽い日本
日本人はオトナにはなれない。
日本人もセコサを学ばなければならない。
仮想敵国のない国際関係など、今までの人類史にはない。

 

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